
「夫婦喧嘩は犬も食わない」と有名な昔のことわざにはあります。
わが家で飼っているインギー犬はとても食いしん坊で、どんなものでも食べ物と勘違いして食いついてしまいますが、そんな犬でさえ見向きもしないという意のたとえからきたものだそうです。そんな夫婦喧嘩は他人が入って仲裁したり心配したりせずに放っておけばいいというたとえなのですね。しかし、私は両親の夫婦喧嘩では、痛く心が傷つき振りまわれたものでした。
繰り返される夫婦喧嘩
私が子供の頃の両親の夫婦喧嘩の原因は育ってきた環境の違いからくる、考え方の相違だったと思います。嫁姑問題、親戚とのかかわり等、どちらが正しいか、感情的になって怒りをぶちまける母に対しもの静かになだめるように話す父と、私の目には映っていました。
それが、母が40代を過ぎるころから更年期の不調からでしょうか、日々の暮らしのイライラを一方的、醜いほどに父にぶつけるようになりました。母の父に対する日常の不満は抑えがたいものであったようです。それは、「今」が原因だけでなく「あの時も…」と過去にまでさかのぼり、些細な事で瞬間湯沸かし器のように着火するので、ほぼ毎日のように繰り返されていました。そんな二人をみて、なぜ、そんなに相手に期待をするのだろう。二人は、いや母は自分の理想を追い求めるのだろうと思ったのです。「そんなに喧嘩するなら離婚して、一人で生きていけば」と何度もいいました。けれど社会に出たことのない母に自立など無理です。本人もそれが分かっているので余計に、どうしようもないストレスになっていたのでしょう。
二人の雪解け
私が結婚をして家を出、妹も自立、父が定年になると夫婦二人の生活なりました。
相変わら日常のささいな喧嘩は続きましたが、父がC型肝炎になり、その後癌が発症すると、母からあんなに嫌っていた父に対して思いやる言葉がでるようになりました。ある時そんな母に聞いてみたのです。「最近お父さんの悪口を言わんようになったね?」とすると、「あーもうしゃーない。」(仕方がないの意味)「もう私ら歳やからなぁ。今更な。」とあっさりと言うではありませんか。お互いに相手に期待をすることをあきらめた。
そして、加齢と共に相手がどんなに自分に必要か気がついたのでしょう。60代後半からは喧嘩はするが、磁石のようにぴったりとくっつき合い、どこに行くのも一緒。寄り添う夫婦と変化したのです。
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父の看取り
金婚式まで後少しのところで父の癌は終末期に入りました。最後の時一ケ月を病院で過ごした父の付添は母がほとんどしました。玄関で足を滑らせて足の甲を骨折。ギブス姿で毎日、朝から夕方までベッドの傍らで共に時間を過ごしたのです。静かに息を引き取った父の亡骸にすがりながら「お父さん、ごめんやで」と何度も繰り返し、声を上げて泣いていた母の姿。それは、これまでの父に対する懺悔の姿でした。
八月の暑い日亡くなった父の誕生日に母は
父が亡くなって翌年の父の誕生日、生きていれば82才の朝のことでした。
当時、同居している母が「今日はお父さんの誕生日やからケーキ買いに行ってくる。」と言い出しました。母は、足が悪く杖をついてゆっくりとしか歩けません。八月の下旬とはいえ、その日も日中は炎天下になるはず。「もう亡くなっているから、お饅頭でもお供えしたら。」と私はやめるように言いました。
「誕生日はやっぱりケーキやから行ってくる。」と私が仕事に出勤するより前に家を出て行ったのです。バスと電車を乗り継ぎ4駅。そこから又母の足で30分近く歩いて生前父が好きだったケーキ屋さんへ。6号のホールケーキは母には重たかったのでしょう。家に帰って箱から出してみると揺られてへちゃげてしまっていたそうです。父の写真が飾られたカフェテーブルに少しの時間それをお供えし、そのあと冷蔵庫にしまって夜に家族揃っていただきました。
夫婦とは添い遂げてなんぼ
亡くなっても尚、愛おしいのか。亡くなってしまったから、愛おしいのか。自分の感情をありのままさらけ出す両親の姿をみて、醜と思っていました。私は夫婦とはいえ他人である。相手を尊重する、迷惑をかけない関係が理想だと思っていたのです。
だからでしょうか、別れた夫とは喧嘩らしい喧嘩は一度もなかったのです。それはやっぱり超水臭い関係であったのではと気づいたのです。両親のようにお互いに自分をさらけ出して暮らしていれば結果は違ったかもしれません。別れてしまってはその答えは永遠にわからない。母を見ていると『夫婦とは添え遂げてなんぼや』とつくづく思うのでした。