
いつの頃からか友人との食事会は、子育ての話よりも年老いた親との関係や、自分たちの将来について話が弾むことが多くなりました。最近では、久々に会った友人が突然に始まった親の介護で、「介護がこんなにも大変だ」とは想像もできなかったと疲れた様子で語ってくれました。実際に、以前職場の責任者の女性は、別居する義母が脳梗塞で倒れ、長男の嫁を理由に義両親の介護を担いわずか1ヶ月で介護離職をしました。いつどのように介護が始まるかは誰も予測はできないものです。
私の母は困った人
私の母は要介護2で、今は有料老人ホームに入居しています。私が高校生の頃から母は体調を崩しはじめ、腎臓結石を機に入退院を繰り返すようになりました。そして徐々に不定愁訴が加わり日常生活にも支障をきたすようになったのです。今思えば、繰り返す腎臓結石はきっかけであって、重い更年期障害に悩まされていたのではないかと思います。
そんな母は、自分の思い通りにならないと感情を爆発させ、数々の問題行動を引き起こしてきました。そんな母を父は誰にも相談することをせずに、ずっと寄り添うように面倒を見てきたのです。私にとっての母は、とても依存心の強い、怒らせると怖い、何をするか分からない、厄介な性格の持ち主であり、とても気を遣わせる相手であったのです。その母のことは他人には知られたくはない恥ずかしいことでもあったのです。
父の死をきっかけに
今から6年前2012年春。桜の季節が終わる頃、父は10年にも及ぶ肝がんの闘病を終え天に召されました。葬儀が終わり、親類やご近所にも挨拶周りを済ませた後、最期を看取るためにハワイから駆け付けた私の妹、子供たち、母の6人で夕飯を食べに入ったレストランでのことでした。
唐突に妹が「お母ちゃんは、姉ちゃんと暮らすのやろう?」「そや、一人で暮らされへん」と母。「そうや、おばあちゃん家に来たらええわ」と子供たち。「四十九日が済んだら行くわ」と母の言葉で早々に私が引き取ることに決まったのです。勿論、あの母と暮らすのは嫌でした。ですが、やはり親の面倒を見ないわけにはいかない。私の中の常識が「うちにおいで」と言ってしまったのです。
もう一人で頑張らない
母は、わが家で暮らす前には介護認定を受けてはいませんでした。重い糖尿病を患い、季節の変わり目には喘息の発作で入院することもありました。気に要らない事があると感情を高ぶらせて大声で怒鳴り、生きるに死ぬのと大騒ぎをして私を困らせることもありました。一人になった寂しさからか、日中にお酒を飲むようにもなりました。また喘息に持病があるにも関わらず、たばこを吸いはじめ、いつの間にかヘビースモーカーになっていったのです。母には、母なりの新しい環境へのストレスがあったのかもしれません。それまでの私ならば、現状を受け入れ父がしたように母に接していたかもしれません。けれどもストレスを抱え込んで、仕事ができなくなったり、これまでの楽しい家族との生活が崩れてしまっては母をこの上なく憎むことになるだろうと考えたのです。なので、母のことを恥ずかしがらずに専門家に相談することにしました。
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相談すべきは専門家
もう一人では頑張らないと決めた私は、母のこれまでの行動が精神的な病気ではないかと考え、ネットで探してメンタルクリニックの先生に相談しました。もし、病気であれば仕方のないこと、幾分か救われる気持ちになると思ったのです。
ですが答えは、そういうキャラクター、性格であるといわれました。それには、安心したような、残念なような複雑な気持ちでした。親身になって話を聞いてくれる先生だからと母を説得し、「私への愚痴を言うはけ口の場」として定期的に診察を受けてもらいました。そして、いつか介護の日がやってきても慌てないように、介護認定を受ける事にしたのです。認定を受けてもすぐ介護サービスを利用しなくてもいいので、いざという時のお守り代わりにと母を説得しました。役所の窓口に行き介護手続きの全てを教わりました。その流れに沿って、紹介していただいたケアマネージャーがほんとに良い女性で、忙しい中時間を作っては母のあれこれ起こす問題について話を聞いてくれたのです。メンタルクリニックの先生に主治医の意見書をお願いしました。
こうして、他人にはあまり知られたくない内輪話を専門家に聞いてもらうことで、様々の情報を収集することができ、うちの母は特別ではない、世の中には結構いるのだと分かり、なんだか肩の力が抜けていったのを覚えています。自分の親だからなんとかしなきゃと抱えこむより、信頼できる専門家、プロから学び任せることの重要性を実感しました。それからしばらくして、お試しに通ってみたデイサービスが介護生活の始まりとなりました。