8月のとある日、免許証の更新に所轄の港北警察署に行ってきました。ついでに警察署の近くにある神奈川税務署にも立ち寄りました。
目的は、個人事業主開業届の申請書をもらうためです。
その場で記入しようかと思いましたが、サンプルは置いてない、ということで届け出用紙だけもらって帰宅しました。
そしてそれから1ヵ月後の先日、警察署に免許証を受け取りに行くついでに、個人事業主の開業届を提出してきました。
記入も簡単で、合わせて青色申告の承認申請書も提出してきました。難しくはないと聞いていましたが、あっけないものでした。
これで今年10月1日より個人事業主として開業します。
思えば40余年の雇われ生活 初めてのアルバイト代
初めて、自分で働いてお金をもらったのは、高校一年生の冬休みでした。親戚の魚屋に1週間住み込みして、かまぼこの製造を手伝ったのです。
朝から夕方まで、友人二人と包丁をもって魚を捌きました。たしかシイラという魚だったと思います。
その親戚の魚屋の親父さんは、奥さんが私の祖母の妹という関係で、物知りとして親戚の間では有名で、泊められた部屋にはマルクスの資本論やら、哲学書やらが並んでいました。
夕飯の時、当時50代だった親父さんは、僕らにいろいろ学識ある話をしていたようにも思いますが、いまでは全く憶えていません。
ただ、ひとつだけ憶えているのは、魚屋は身体の芯まで生臭くならなきゃ魚屋じゃない!と豪語していたことです。
僕ら3人は、働くって大変だなとぼんやり思いながら、1週間後にアルバイト代1万円を受け取りました。
アルバイトに明け暮れた学生時代
僕の父の口癖は、手に職をつけんとあかん、でした。つまり手に職を持っていれば食いっぱぐれしない、ということです。
具体的に言えば、技術系の資格を取るということでしょうか?いまなら多少分かりますが、中学時代はなんのことやらわかりませんでした。
父の勧めもあって、しかも家は貧乏だから大学へはやれん、ということで、高校は国立高専の電気工学科に進学しました。
でも所詮、電気工学なんて興味のないことで、僕は音楽を聴いたり小説を読んだり、また生き物が大好きで昆虫を追っかけたり、犬や猫たちと遊ぶの好きでした。
そして五木寛之の「青年は荒野をめざす」と出会い、東京の大学、それも五木さんと同じ大学に行きたいと切望するようになり、勝手に高専を3年で中退して、1年間アルバイトしながら受験勉強して、ラッキーにも五木さんと同じ早稲田大学に行くことが出来ました。
もとよりそんな経緯で大学に行ったものですから、仕送りなんてもらえないし、親にもそんな余裕はありませんでした。
上京しても三畳一間の家賃8千円の下宿に住み、アルバイトに明け暮れ、5年間掛かりましたが、なんとか卒業して今の会社に入社することができました。
雇われる生き方から雇われない生き方へ
36年のサラリーマン生活は、雇われる生活ですから、我慢することも耐えなければならないこともありました。むしろその割合の方が多く、楽しかった記憶は少ないように感じます。
「辞めてやる!」と何度も思いましたが、家族、特に「三人の子供たちを養わなくては」と、ぐっと我慢して会社の仕事を続け、気が付けば定年までやってきました。
ここまできて、ようやく背負っていた荷物が軽くなってきたのを実感してきました。
しかも、60歳なんておじいちゃんと思っていましたが、意外とまだまだ元気です。
ここで、雇われる生き方から雇われない生き方へとシフトしたいという考え方は自然なことでした。
しかも世の中はインターネット時代。ネットにつながるパソコン1台あれば稼ぐことが出来る時代になっていました。
これは活用しない手はないです。
最後に
定年の数年前より副業を検討していました。ひとつは生活の向上のため、もうひとつは定年後も働くため。
いろいろ本を読んだり、インターネットで調べたりしていましたが、そこで知ったのがインターネット広告業、つまりアフィリエイトというビジネスです。
なんといってもその魅力は、ネットにつながるパソコンがあれがビジネスが出来ることと、会社勤めの空いた時間に出来ることです。
僕はセンスがいいとは言えません。でも何年か続けてきて多少収入も出てきました。
定年になるまで身体を張って、人間関係に消耗しきって会社の業務を続けてきた身には別の世界が広がってきたように感じます。
アフィリエイトで成果を挙げている人は20代から40代が多いと聞きますが、僕は、60歳過ぎのおっさんでも、どこまで出来るか挑戦していきたいと日々パソコンに向かっています。
【前回の記事はこちら】
定年後 猫の恩返し 一緒に生きるのもいい