こんにちは。
こめまるです。
最近、筒井康隆著『老人の美学』(新潮新書)を読みました。
今年は同じ筒井氏の老人文学の金字塔!?『銀齢の果て』という長生きは悪か!という禁断の問いをめぐるドタバタ長編小説も読みました。
筒井康隆氏の小説やエッセイは、高校生から大学生、若手社会人の頃には、読み漁って笑い転げていましたが、そんな筒井氏も85才で、老人をテーマにする小説やエッセイを書くようになったのかと感慨深いものがあります。
僕が人生の師と仰ぐ五木寛之氏も筒井康隆氏も共に85歳を超えましたが、まだまだ現役で文筆業を続けておられて、40余年に渡ってお二人の作品を楽しんできた読者としては、やはり生きる指標に出来ると嬉しい限りです。
さて、今日は、筒井氏の『老人の美学』に触発されて、60歳からの出会いについて考えたいと思います。
60歳からの出会いは新鮮
小学校の同窓会が4年に一度、オリンピックイヤーの夏に行われます。
僕は、故郷の富山を離れて40年以上経つので、出来るだけ出るようにしていましたが、次回からもういいかなとも思うようになりました。
初めて出席した10数年前は、それはそれは新鮮でした。級友たちと小学校や中学校当時の思い出話に話が弾みました。その後2回、3回と新しく出席するメンバーも増えて話し相手に事欠きませんでした。
しかし、それが4回、5回となると出席メンバーも固定され、地元を離れて彼らと40数年間会わなかった時間は埋められるものではなく、なんとなく億劫になってきました。
小学校の同級生は70名ほどでしたが、9割ほどは地元に残り、彼ら同士は高校生以降も付き合いがあり、思い出は更新されています。
しかし進学した高校も大学も地元からただ一人だけだった僕は、級友たちとの思い出は中学で止まったままで段々出席してもつまらなくなってきたのです。
そんな僕の最近の喜びは、60歳過ぎてからの出会いです。
それは社会人時代の仕事がらみの出会いと違い、学生時代に戻ったような新鮮なものです。
60歳からは出会いを求めて
定年から一年経った昨年夏、茅ヶ崎を拠点とする合唱団に入団しました。既に30年間当地で活動している合唱団でした。そのため、特に男性陣は、僕がもっとも若い世代でした。
しかし、人生の先輩たちとの付き合いは、同じ音楽を趣味とする者として楽しいものです。
もうひとつは、アルバイト先での出会いです。
現在2つを掛け持ちしていますが、16歳から66歳までの一緒に働く仲間との出会いがありました。
特に16歳の高校2年生との出会いは新鮮でした。
彼は、8月の夏休みに僕がアルバイトしている量販店に涼みに来ていたのです。
ソファに友人二人を座っていた彼に僕は、
「高校生?」と声掛けしました。
「そうです。邪魔ですか?」
「いや、いいよ。このソファどう?」
「いいですね。座り心地もいい。」
「じゃ、ご両親に買ってもらって。」
「いや、自分でも買えます。」
「へえ、すごいね。アルバイトしてるの?」
「ええ、近くのレストランでバイトしてます。これから行くところです。」
そして彼は僕に、そのレストランに来てくださいというので、その内行くよ、と答えてその時は別れました。
その2ヵ月後、僕はそのレストランでアルバイトすることになり、シフトが一緒になった彼にその時の話をしたら、ちゃんと憶えていて、本当に来てくれたんですね!と感激していました。
僕は単に、レストランにお客で来てくれと言われた思っていたのですが、彼は僕にアルバイトに誘ったそうでした。今後彼は、進学、就職という人生を送って行きますが、彼が就職する頃は僕も70歳になろうかという年齢になっています。何かひとつ楽しみを見つけた思いです。
最後に
37年間勤めた会社でも多くの出会いがありました。でもその出会いは仕事を離れれば無くなるものです。
7月末の僕の送別会には、40人以上出席してくれましたが、ここにいるほとんどの人とは、もう一生会うことはないな、と覚悟しました。
筒井氏も退職した会社に連絡したり、また訪問したりするのは醜い行為だと指摘しています。特に退職者対象の社友会があるような大企業出身者によくあるようです。
僕自身は、長く勤めた会社であり業界でしたが、なんの未練もありません。
しかし中には素晴らしい人との出会いもあり、そんな方たちとの別れは寂しいものでした。
ただ、新しいことを始めれば新しい出会いが待っています。しかも会社員時代には出会うことがなかった世代の人たちとの出会いです。
身体が老いていくのは仕方のないことですが、気持ちまでも老けさせないために新しい出会いを求めて行きたいものです。
2,000万円の老後資金を貯めるために必要な知識が最短3カ月で完全取得できる